料理を作ればサラリーマンのうつ病は治せる!

2017年に定年退職した元サラリーマンが、自分のうつ病体験を元に「うつ病から自力で回復するためのリハビリテーション方法=料理を作ること!」について、思った事・できた事をあれこれ語ります。

料理を作ればサラリーマンのうつ病は治せる! 【不定期連載 第16回:私の職歴とうつ発症の事情(8)】

 昨日の晩御飯は、「サバの味噌煮」と「イカと里芋の煮物」にしました。サバは色が濃い目ですが、これは赤だし味噌と白みそをほぼ1:1で入れて煮詰めた結果です。でも少し味噌を入れすぎた感はあって、「しょっぱい」ぎりぎり直前の「しっかり」味がついた状態です。少し目を離した空きに焦げる寸前まで煮てしまったのも、色が濃くなった原因です。

  「イカと里芋」は昨年10月24日にも作ってご紹介していますが、あの時は冷凍里芋とボイルいかを合わせただけの「なんちゃって煮物」でした。今回は安売りで買ってきた1個38円の大振りの里芋を4個圧力鍋で下ごしらえし、イカは一杯198円が30%offになっているのを買ってきて捌き、これも見切り品だった8本50円のシシトウを合わせて焚いてみました。

 味も少し薄目にしましたので、素材の味がよく分かっておいしかったです。やっぱり手を抜くと味に出ますね。 

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自宅での日々 

 さて、退職届を出し後輩への業務の引継ぎを終えた私は、自宅での有給休暇消化生活に入りました。

 以前も書きましたが、多くのうつ病関連の書物には「うつのさなかにあっては、転職などの人生の重要な決断はすべきではない。その理由は、判断を誤る可能性が高いからである」と異口同音に書かれています。

 しかし私は、自分がうつになったのは職場の環境・人間関係が原因であることを明確に認識していたので、「退職しなければ治らない」と考え、決断しました。そしてそれは正しい判断でした。

 

「もう、会いたくない人たちがいる会社には行かなくて良いんだ」

「穴倉のような場所で、答えの出ないたくさんの仕事に埋もれる必要も無いんだ」

「サービス早出・サービス残業も、もうやらなくて良いんだ」

 そう考えて大きな開放感を感じ、およそ10カ月ぶりくらいに身体を大きく伸ばして眠ることができました。

 その反面、大学5年生(私は1年留年しています)の時の情報収集や会社訪問によって業界や企業を選び入社意思を固め、新卒と同時に入社し、店頭の一販売員からシステム構築・販促企画・経営企画まで様々な仕事に携わってきた24年間が幕を閉じたことへの惜別、会社の業績低下と経営危機に際し、何かしら影響を与えることができる場所に居たにも関わらず、自分の力ではどうすることもできなかった後悔と無力感、尊敬する先輩、愛すべき友人、有望な後輩たちとの別離など、様々なことが頭をよぎり、「すべてが変わり、終わってしまった」という孤立感に苛まれ、しばらくの期間何もやる気が起きず、朝寝坊から起きた後、ひたすらぼーっとする毎日でした。

 それでもしばらくして、早く新しい仕事を探さなければいけないと考え、パソコンを使って転職サイトへの履歴書の登録や検索を始めました。 

再就職活動 

 年が明けて1月上旬、正式退職になった後、ハローワークに通うことにしました。失業手当の申請とともに求人票を閲覧しますが、それまでの自分の給料のレベルを維持できる求人がありません。家内からの、「この家をやっていくには〇○万円かかる」という言葉が呪縛となりました。

 

 品川のハローワークで、再就職支援のセミナーをやっていると紹介され、失業認定時の就職活動の実績になるとのことで通うことにしました。

 品川HWには男女合わせて20名弱が集まっていました。毎週一回インストラクターさんの講義を聴き、ワークをしながら実際に再就職活動を行い、決まった人から外れて行くシステムで、(最後まで出席して構わないが、決まった人はそれ以降、皆欠席となる)軽い競争をしながら支援するスタイルでした。

 当時の資料は既に処分してしまったので正確なことは記憶が頼りですが、当時私は48歳、私より若い男性が5名くらい。同学年が3人いて、年上の方が5人、女性も5人くらいでしたか。全体で8回程度の講座でしたが、若い方はどんどんいなくなり、後半になると高齢者ばかりになっていました。

 講座では、職業観の再確認や、どんな業界・職種を目指すのか、履歴書・職務経歴書の書き方、模擬面接などを行って意識を高め、背中を押してくれたおかげで、重い腰を上げることができました。同病相憐れむ仲間がいることで、平常心を取り戻すことにもつながったと思います。

 

 職業観の確認ですが、いざ「自分をどう売り込むのか」を考えたとき、立ち止まってしまいました。

「いったいこれから、自分に何ができるのだろう・・・」

 自分がやってきたことを職務経歴として書くこと自体は難しくありません。しかし、それを「成功した実績」としてアピールすることは、とても難しいことでした。

何しろ自分が中間管理職としてやってきた会社の経営が傾き、最後は閑職に追いやられたのです。(実際には業務量が多くてまったく暇がない職種でしたが)

 

 自分の長く従事してきた職種は、HWの職業分類で行くと「調査・企画」にあてはまりそうでしたが、そういう求人はほとんどなく、すぐに応募できそうなものは「営業職」ばかりです。

 しかたなく営業と企画の二本立てで、業界にもあまりこだわらず、流通・サービス業のチェーン店をターゲットに探すことにしましたが、それでも部長クラスの収入が提示されるような求人はまったくありません。

 

 並行して複数のWebサイトでの求人検索も進め、少しでも自分にできそうなものを、毎日目を皿にしてさがします。年齢:45歳くらいまでと書かれている求人でも「まあ3歳くらい上でも、なんとかなるだろう」と勝手に拡大解釈して応募し応募書類を送りますが、「残念ながら・・・」の返事が来るばかりです。

 面接にこぎつけた会社もあり、1時間半以上かけて千葉の工場まで行ってみましたが、「月給はせいぜい25万円までしか出せない。それでも良ければ応募してください」との説明。「やはり」と思いながらすごすごと帰ってくることもありました。 

家庭不和の予兆 

 そうして1月が過ぎ、2月が過ぎ・・・初めは優しかった妻の態度や言葉が、だんだんときつくなって行きました。

「まだ就職先は見つからないの? 早く何とかして頂戴!」

「どんな仕事を探してるの? 何でもいいから早くみつけてきなさいよ!」

「いま全然収入は無いんだからね!」

 

 「全然ない」と言われてさすがに腹が立ちました。失業手当が毎月23万円ほど出ています。

「HWからの失業手当(基本手当)があるじゃないか」

と言うと、

「あんなはした金じゃ何の足しにもならないわ!」

 とにかく妻は「カネ」でした。

 

 

ではまた