料理を作ればサラリーマンのうつ病は治せる!

2017年に定年退職した元サラリーマンが、自分のうつ病体験を元に「うつ病から自力で回復するためのリハビリテーション方法=料理を作ること!」について、思った事・できた事をあれこれ語ります。

Facebookって怖いです・・・!

 昨夜は八宝菜を作りました。

 具材は冷凍しておいた豚肉、白菜、人参、ピーマン、もやし、さやえんどう、えのき、ウズラのゆで卵パック、さつま揚げ。エビ・イカ・ホタテは冷凍シーフードです。

 味付けはニンニク、酒、鶏ガラスープ、オイスターソース、醤油です。とろみを加えたら最後にごま油をひと回し。食べるときは酢とカラシ、紅生姜などを追加します。

 ん~充実感!

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(またピンボケですね)

Facebookは怖いです

 さて、このたびFacebookを始めました。本当はやりたくなかったんですが、あるセミナーを受講することになって、主催者側がFacebook上にグループを作り、資料や課題などをあげて、参加メンバー間の情報も共有しましょうということで、ついに必要に迫られてやらざるを得なくなってしまいました。

 私はこのBlogで既に書いた通り、とても小心者で引っ込み思案で人見知りなんですね。友達をたくさん作って喜べるタイプではないんです。過去の人生で、人付き合いは失敗ばかりであまり良い思い出がありません。はっきり言って苦手です。

 人と趣味が合わなかったり意見がぶつかることも多いし、幼稚園の頃にいじめられた相手とか離婚した元嫁あたりを筆頭に、二度と会いたくない人もたくさんいるので、本名も出して顔写真も出して、その方々に見つかったらトラブルが再燃しそうで嫌だなという抵抗感もあり、また最近、FBからの個人情報漏えいと言う話もあり、少しも興味がなく、正直やりたくありませんでした。

 

 「そんな奴がよくBlogなんかやってるな」と怒られそうですが、何か文章を書いていたかったし匿名でいられるし、半分日記みたいなものなので始めました。

 私の本音や趣味嗜好に興味を持ち共感していただける方だけが見てくれれば、その方々とはお友達になれる気がするのですが、正直FBでは(ましてTwitterでは)表面的で瞬間的(刹那的)・儀礼的なお付き合いばかりが拡大して行きそうで、私という人間の断片ばかりが独り歩きしてしまいそうで怖いし、面倒くさいとも感じています。

 だから自分だけが好き勝手にコントロールできる(あまり反響のない)Blogが性にあっているのかもしれません。

 

 FBを初めて1週間、セミナー主催者や参加メンバーの方々だけとつながれば十分だったんですが、さっそく何人かに見つかってしまい、「友達リクエスト」が来ました。

 ・・・その方々は問題ないんですが、そのうちどこの誰だか分からない外国人から英語でリクエストが来るし、挙句の果てにプノンペンから、何と読むかわからない名前(アラビア語?そんなフォントどこにあるんだ)の人からも来るし・・・予想通りの展開が始まっています。

  ただ、リクエストという機能はいいとして、何のコメントもなくただ来るのは、本当に本人の意思なのでしょうか? FB側が何らかのアルゴリズムを使って当たった人を勝手に送信して来るのじゃないですかね? 心配です。

 「友達の友達」さんからもリクエストを頂きましたが、まったく存じ上げないしおそらく今後もお会いする可能性は低いと思われましたので、勝手ながら削除させていただきました。

 でもこれも、もしかしたらとんでもなく失礼で憤慨されていたらどうしようと思うし、自分に分からないところで評判が落ちていたり、友達に迷惑がかかっていたりするのかなとも心配になります。

 (後で判りましたが、友達ではない人に閲覧を制限する設定ができるみたいですね。研究してみます)

 こういう新しいITツールに共通するのは、本当の効果が分からないところです。どういう意図で作られ、何が狙いなのか、どんな影響があるのか、詳細が分からぬうちに、あるいは懸念が払拭されないままに運用が始まり、表面的な機能や表向きの利便性が評判になり、世間にブームが起きて広まってしまうことです。リスクについては、誰に訊いたらいいんでしょう? 誰が本当のことを知っているんでしょうか?

 私は、ことITに関しては性悪説の立場です。誰かが情報を掴み、覇権を狙っている・・・。もと流通業で、「Bigデータ」という言葉ができる以前にPOSデータのマーケティング活用を研究していたことがあり、なんとなく「狙われてる」感がするのです。

 Net上には親切に質問に答えてくれる方もたくさんいらっしゃいますが、どこまでが本当なのかの判断基準もありませんし、結局は自分で判断するしかなく、だとすれば自分が好きになれなければやりたくないのです。

 スマートフォンも怖いです

 話が広がってしまいますが、私はスマートフォンも持っていません。相変わらずガラケーです。「ガラケー」という言葉ができる前から使っているガラケーユーザーです。

 スマホの功罪の「罪」の部分が気になってしかたなく、私は使う気になれないのです。頑固爺ですね。これじゃ時代に取り残されるわけです。

 

 昔、文筆家・評論家の大宅壮一さんと言う人が、TV受像機が世に出たときに「これで1億総白痴化が進む」と批判したそうです。私はTVっ子でありTVから情報を得て情操教育までしてもらったと思っていますが、確かにその世代から見ると、教養がなくなると思ったのでしょう。

 しかし私は

スマホによって1億総貧困化が起きる・既に起きている」

と考えています。案の定、スマホによって様々な産業が駆逐され、文化の衰退が進行しています。

 

 まず若者を中心にスマホの通信料に支出を取られ、消費全体が落ち込む。可処分所得の5~10%、ひどい人は20%以上を取られていますから、他のことに回すお金がありません。大半がメールとSNSの閲覧、ゲームの課金であり生活必需品への支出も抑え込まれています。

 もう何年かで紙の新聞はなくなるでしょう。紙の本も、漫画も含めて誰も買わなくなる。新聞社、新聞販売店、書店、出版社は衰退産業です。

 実物を見ないで済ますから店舗販売も衰退します。車も持っていないから、今後郊外型の大型店舗は加速度的に閉店に追い込まれます。残るのは近隣のスーパーとコンビニだけ。それも宅配ニーズに対応できるところだけが生き残ります。

 ファッションや化粧など、外見を良くする・着飾ることは更に先鋭化するが、生地や裏地・縫製など、見えないところの職人技は衰退する。

  大型スピーカーがなくなり、それを鳴らす大型アンプも不要。大型スピーカーでしかニュアンスを表現(再生)できない楽器や楽曲もいずれ衰退し、楽器のうまい職人アーティスト、スタジオミュージシャンも不要。いづれ電子音楽だけになる。CDやDVDなど、スマホに入らないメディアもなくなる。

 コンピューターもDESK TOPは既に衰退していますが、NOTE型も一部のビジネス需要以外はなくなります。

  

 人々はいつもスマホで誰かと刹那の会話をしており、常に即断即答を求められるため、沈思長考することがなくなります。その結果、判断や行動が瞬間的・ゲーム的になり、重大事案に対する判断ミスが増え、社会不安・政治不信がさらに拡大します。

 また大きな事故や犯罪、大人災が起きやすくなる。事実として、既に「歩きスマホ事故死」が起きています。また人間の乗ったバイクを自分の車で追いかけて事故を起こして潰し、「はい終わり」とつぶやく人まで出る始末・・・。もう現実なのかスマホのゲームの中なのか、区別がつかなくなっているとしか思えません。

 

 メールでの会話や長時間のゲームプレイによって一般人の思考力が衰えますから、「考える人」と「考えない人」の格差が広がり、その結果、貧富の差も更に拡大します。 

 そして最大の問題点。お金もないし時間もかかるし、いつもスマホが気になっていて操作する時間がなくなるから、日常生活も最低限のことしかしなくなり、従って恋愛も結婚もめんどくさくてしなくなり、子供も作らなくなる。人間もCDやDVDと同様、スマホの画面に入らないものは衰退するのです。

 もちろん出生率の低下はスマホ以前から傾向としてありましたが、拍車をかけていると言えないでしょうか。

  そういう流れに人間を当てはめて行くのがスマホと言うツールだと思うのです。それが怖くて、私はスマホに手を出すことができません。

 

 でも、今使っているガラケーが壊れバッテリーの交換ができなくなったら、その時はいよいよ使うしかないんでしょうね・・・。嫌だなあ。

 私は電話とショートメールしかしないんですがね。指が太くて短いので、タッチ画面が苦手です。画面をスクロールするのに、どうしてスライドするしかやり方がないのでしょう? ページをめくるボタンをつけてほしい。画像の拡大も専用ボタンにしてくれ。片手で操作したい!

 

 それに・・・画面が小さすぎて見えなーい!

 

ではまた